元、明、清の時代
モンゴル族の政権が誕生しても、岷江上流の羌族地域に範囲の変化は見られませんでした。
元・至元十九年(1282年)に、元政府はこの地域内の人口が少ないため、都護司をひとつだけ設けて、まとめて行政管理を行なうことにしました。
その他、羌族の貴族を起用して土司制度を初めて導入しました。
元の時代も動乱があいついだが、羌族地域に対しての管理が厳しくなかったため、土司の勢力が増大し、後の明政府に向かって反乱の種となってしまいました。
明代では、全面的に土司制度を実施、明洪武十一年(1378年)、松藩宕畳威茂巡検司を元にして、茂州衛指揮司を設けました。
明の時代の羌族地域のもっとも大きな変化は明英宗の時(1436-1449年)、明政府は穆坪(今の宝興県)のチベット族の首領ヨンチュンロロス(雍中洛羅思)を瓦寺宣 慰司とし、領地も新たに南チベット族と羌族の雑居地としたことであります。
これにより 站川の一部羌族はチベット族の土司の属民となり、瓦寺土司もその後最も勢力を持つ土司となりました。
明の末には羌族地域の南に大量の漢族移民があり、羌族はさらに北へ、或いは平地から山へと移動せざるをえず、地域は更に縮小してしまいました。
明の時代の羌族地域のもっとも大きな変化は明英宗の時(1436-1449年)、明政府は穆坪(今の宝興県)のチベット族の首領ヨンチュンロロス(雍中洛羅思)を瓦寺宣 慰司とし、領地も新たに南チベット族と羌族の雑居地としたことであります。
これにより 站川の一部羌族はチベット族の土司の属民となり、瓦寺土司もその後最も勢力を持つ土司となりました。
明の末には羌族地域の南に大量の漢族移民があり、羌族はさらに北へ、或いは平地から山へと移動せざるをえず、地域は更に縮小してしまいました。
清の初めに、土司制度は明の時代以上に強化されたましたが、政府との衝突、土司同士の争いがしばしば起こり、明政府を大変悩ませていました。
土司の勢力を削減するために、明末に土司の称号を奪い、流官の派遣を実施し、勢力が小さい土司だけに、「改土帰流」を行ってはいたものの、あまり徹底的に行なっていなかったため、土司制度が存在する基礎は少しも揺らぐことはなかったのです。
清の中期になって、強力な中央集権が形成され、地方強豪土司の勢力を許さず、本格的な改土帰流が始まりました。
清の後期には、羌族地域の土司は瓦寺、静州、岳希、龍木、牟托の五つだけとなり、これらの管轄権も大幅に削減され、瓦寺土司を除いて、静州、岳希、龍木、牟托土司の実際の管轄範囲は四つ以内の村に限られました。
改土帰流政策によって、瓦寺土司が管理していた羌族三斎地域(今の茂県曲谷郷、三龍郷)はチベット土司の手から羌族地域に戻り、羌族地域の保全に役立つこととなりました。
土司の勢力を削減するために、明末に土司の称号を奪い、流官の派遣を実施し、勢力が小さい土司だけに、「改土帰流」を行ってはいたものの、あまり徹底的に行なっていなかったため、土司制度が存在する基礎は少しも揺らぐことはなかったのです。
清の中期になって、強力な中央集権が形成され、地方強豪土司の勢力を許さず、本格的な改土帰流が始まりました。
清の後期には、羌族地域の土司は瓦寺、静州、岳希、龍木、牟托の五つだけとなり、これらの管轄権も大幅に削減され、瓦寺土司を除いて、静州、岳希、龍木、牟托土司の実際の管轄範囲は四つ以内の村に限られました。
改土帰流政策によって、瓦寺土司が管理していた羌族三斎地域(今の茂県曲谷郷、三龍郷)はチベット土司の手から羌族地域に戻り、羌族地域の保全に役立つこととなりました。

