<トルファン(吐魯番)について...>
天山山脈の南東麓、トルファン盆地の中央にあるにあるオアシス都市。トルファンはウイグル語で「くぼんだ土地」の意。市の南にあるアイディン湖は、湖面が標高マイナス154メートル、世界で二番目に低い所にある湖である。一番は死海でマイナス399メートル。
古来、「火州」と呼ばれ、夏の平均最高気温は38度をこえる。一方、降水量は年間で25ミリと極端に少ない。
北へ向かえば天山の北麓に、南に向かえば天山南路。その地理的な位置より、古くからシルクロード上最も重要な拠点のひとつであった。中国の前漢の時代には交河故城を王城として車師前国が栄えていた。玄奘三蔵法師がインドへ向かう途中立ち寄った時に栄えていたのは高ケ国。唐は、その高昌国を滅ばしここに安西都護府を置く。その後、チベット、西ウイグル国、モンゴル、東チャガタイ=ハン国、カシュガル=ハン国、ジュンガル部が支配するところとなった。
<トルファンの見所>
トルファン博物館
二階建ての建物。規模は大きくないが、出土品、ミイラなどにシルクロードの要衝としての歴史を感じさせる。
一階には高昌故城、交河故城、ベゼクリク千仏堂、アスターナ古墳群などから出土した石器、木器、陶器、絹、麻や毛の織物、墓誌などが展示されている。
二階は、アスターナ古墳群などから発掘されたミイラが展示されている。
カレーズ博物館
「カレーズ」はペルシャ語。「掘って水を通す設備」。山麓に地下水を掘り当て、その水を村まで引いてくる。引いてくる方法は、二、三十メートルごとに竪穴を掘り、それを横穴で繋いで水を通してくる。
井戸はもっとも深いものでは70メートル近くにもに達する。また長さは、普通は3キロ程度、もっとも長いもので10キロである。
トルファンには千二百本のカレーズがある。これにより、天山の雪解け水の伏流を引いてきている。これにより、中国で一二を争う乾燥地帯であるにもかかわらず、村の水路には水が溢れ、ポプラの並木が葉を風に揺らせながら日陰を作っている。トルファンは葡萄の産地として名高いが、それを可能にしているのもカレーズである。
葡萄溝(ぶどうこう)
市街から東北へ10キロ。火焔山の西側の渓谷を利用して葡萄の栽培が行われている。幅1キロ、長さ9キロ。
葡萄栽培の歴史は古く、5~6世紀には麹氏高昌国で葡萄が栽培されていたと史書に記されている。
トルファンで名高いのは「馬の乳房」と呼ばれる細長い薄緑の葡萄。乾しぶどうにもされる。
蘇公塔(そこうとう)
市の中心部から東へ2キロ。イスラム建築の尖塔である。
1779年に時のトルファン郡王のスレイマン(蘇来満)が父親の(エミン)額敏を記念するため建てた。別名、額敏塔ともいう。
高さ44メートル。外壁は煉瓦の組み合わせて様々の紋様を描き出している。塔内も材を使わずに煉瓦を積みあげた螺旋形の支柱で塔を支えている。
塔の下には教堂が建てられている。また、漢文とチャガタイ文の二言語で書かれ建塔の碑もある。
高昌故城(こうしょうこじょう)
トルファンの市街地から東へ40キロのところにある。前漢はここに高昌壁をつくり漢人を入植させた。その後、五世紀から七世紀にかけ、漢人の麹氏が建てた高昌国の王城として栄えた。
東西1.4キロ、南北1.5キロ。建物はすべて日干し煉瓦で造られていた。それが、風化を受け、ほとんど廃墟となって広がっている。
それでも、王城、景教寺院、マニ教寺院、仏教寺院などの遺跡を判別できる。
現在我々が目にする高昌故城は、麹文泰が建てたものと言われるが、玄奘三蔵をこの地へ招聘したのがその麹文泰である。628年のこと。玄奘はお礼に一ヶ月、仏教の講義をしたという。玄奘が、インドからの帰り、再訪しようとしたが、その時には唐によって滅ぼされた後であった。高昌国の滅亡は640年。玄奘の長安帰着は645年であった。
唐は高昌国を滅ぼした後、安西都護符を、交河故城におくが、更にその後はウイグルの高昌国の王都として栄えた。廃されたのは明代前期。
アスターナ古墳群
トルファン市の市街の東南40キロ。高昌故城の北西4キロ。4世紀から7世紀にかけてこの地に栄えた麹氏高昌国の古墳群。墓の数は五百。葬られているのは、多くは漢族の豪族。家族ごとに埋葬されている。
遺体はミイラ化し、同時に、副葬された埋葬品も保存状態はよい。絹織物、陶器、木器、貨幣、墓誌、文書類が発掘されている。なかで有名なものは、絹本の伏羲女蝸図、舞楽図、囲棋仕女図、牧馬図、樹下美人図、樹下人物図などである。
なお、アスターナはウイグル語で「首府」の意。
火焔山(かえんざん)
トルファン盆地の中部に横たわる岩山。夏の強い光が当たると燃えるように赤くなる。地元の人は、キジル・タグ(赤い山)と呼ぶ。
色が赤いばかりでなく、地質学では、地殻にはたらく力によって地層が波状に押し曲げられることを褶曲と言うがその褶曲運動により、山肌に縦に無数のひだが入っていて、赤い炎のように見える。東西100キロ、南北10キロに広がり、平均海抜約は500メートルある。
『西遊記』の「唐三蔵火焔山に阻まれること 孫行者芭蕉扇を奪いとること」の一段が、ここを舞台にしている。
三蔵が土地の老人に問う。
「ご当地は秋だというのに、どうしてこんなに暑いのでしょうか」。
老人、答えて曰く、「この地は火焔山と申しましてな、春も秋もござらぬ。四季を通じて暑いのですじゃ」。更に続けて、「ところがあたり一面、火がぼうぼうで、草一本生えておりませんな。そこを通ろうものなら、よしんば銅のあたまに鉄のからだを持っていたとしても、どろどろに溶けて汁になってしまいますじゃ」。(括弧内は中野美代子訳『西遊記』岩波文庫からの引用)
そこで、燃える火焔山を過ぎるために、「ひとつ煽げば火が消える、ふたつ煽げば風おこる、みっつ煽げば雨が降る」という芭蕉扇を鉄扇公主から奪う話である。
アイディン湖(艾丁湖)
トルファン盆地の南部にある。トルファン市からは南へ40キロ。アイディンはウイグル語で「月光」の意。湖上や湖岸が塩の結晶で白く輝いていることから付けられた。海抜はマイナス154メートル。中国でもっとも低い地点である。
春は雪溶水が流れこむために水をたたえるが、夏から秋にかけては、強い日ざしのために湖水は蒸発し、湖底をあらわす。
ベゼクリク千仏洞
トルファン市から東へ60キロ。火焔山北麓のムルトゥク河の断崖に掘られた石窟寺院。幅400メートル。現存するのは64窟。開削は六世紀の麹氏高昌国に始まる。最盛期は十世紀、トルファンはウイグル高昌国の中心であったが、その頃のウイグル人はまだイスラム化しておらず仏教を信奉していた。そのウイグル人によって造られた。
ウイグル人は九世紀の半ばに草原地帯からトルファン盆地に移住してきたが、それで、彼らは様々な宗教に出会った。仏教、マニ教、ネトリウス派キリスト教、ゾロアスター教など。そのなかで最初にから彼らと接触のあったソクド人商人の奉じていたのがマニ教であったからである。その後、時が経つにつれ、仏教やキリスト教に改宗するものが出てくることになる。
ベゼクリク千仏洞のなかに、37窟など、マニ教の寺として造られながら仏教に改変したものが見られるのはそういった事情による。
ウイグル人のイスラム化は、地域により、年代はかなりずれるとされている。ホータン地区で11世紀、クチャは12世紀、トルファンは最も遅く15世紀といわれている。
ベゼクリクはウイグル語で「装飾された家」。華やかな壁画に飾られた窟が多い。ただし、またそれ故に、スタインなどの外国の探検家に壁を切り取られ持ち去られることにもなった。
残された中で名高いのは第39窟の「各国王子挙哀図」。挙哀とは、葬儀のさいに遺族などが号泣して悲しみを表すことであるが、この図には西域のさまざまな民族の姿、衣装、髪飾りなどが描かれていて、当時の風俗、生活を偲ばせる。
交河故城(こうがこじょう)
トルファンの街から西へ10キロ。二本の河の交差するところにあるので交河故城という。中国の漢代の車師前王国の治所の所在地とされる。今から2200年ほど前のことになる。
高昌故城が漢以降この地に進出した漢人の住処であったのに対し、交河故城は騎馬民族と思われる車師人の古くからの住処であった。ふたつの城は、70キロ離れながらそれぞれ独自の文化を保持していた。車師前王国の滅亡は紀元450年。その後は、交河故城も漢人の支配するところとなった。
麹氏高昌国の時代には、高昌故城の副都的な存在で、交河郡城と呼ばれた。
その後、唐は、麹氏高昌国を滅ぼすと 安西都護府を置いたがその在所が交河故城であった。
現存するのは唐の時代と、それ以降のもの。東西1000メートル、南北300メートルの長方形をなし、東と南に城門がある。城壁はない。城内南部に幅3メートル、長さ350メートルの大通りが南北に貫き、その両側に崩れ落ちながらも土の建物群が残っている。その大通りを軸に三つに地区に分かれていたと考えられている。西北区は寺廟地区。寺の遺構や仏塔がある。東北区は居住区。小型の建物が並ぶ。東南区は大きな建物が多く、役所区であったとされる。また、大通りの北の先に版築で築いた仏教寺院があり、搭の上に置かれた仏龕に仏像が残っている。これらすべてが土で造られたものである。
*新疆ウイグル自治区の観光地*
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