<クチャ(庫車)について...>
紀元前からのオアシス都市。漢の時代には「亀茲(キジ)国」と呼ばれた。自らも金属を産し、また、天山南路最大のオアシスとしての中継交易で栄えた。
後に匈奴の支配下に入り、後漢の時代には班超に降り西域都護府が置かれた。
「亀茲国」の滅亡は七世紀。唐に滅ぼされる。九世紀半ばには、北方の草原から移住してきたウイグル人が国を建て、亀茲ウイグルを名乗った。
クチャで有名なのは音楽と仏教遺跡。音楽は、「亀茲楽」と呼ばれる。中国の隋・唐時代、西域の音楽がもてはやされたが、その中心が亀茲楽であった。琵琶、ハープ、ひちりき、横笛、簫など多彩が楽器を用いてエキゾチックな音楽を演奏した。
また、仏教遺跡に関しては、キジル、クムトラ、スバシなどの大規模の仏教遺跡を多く抱える。鳩摩羅什(350~409)は中国仏教史上、最も大きな影響を残した高僧の一人であるが、鳩摩羅什はこの地に亀茲王の妹を母として生まれた(父はインド人)。仏典の漢訳にも力を注ぎ、「般若経」「 法華経」「維摩経」などの大乗経典35部294巻におよぶ翻訳を完成させたという。
地名がクチャとなったのは、18世紀半ば、清朝のジュンガル部への遠征・平定の後のことである。
<クチャの見所>
亀茲故城(きじこじょう)
市の中心から西へ一キロほど。土で築いた城壁の跡がある。周囲は七キロ。漢の時代の亀茲国のもので、後に唐が西域都護府を置いた場所でもあると考えられている。
正式な調査が1957年に、中国を代表する考古学者である黄文ヒツにより行われている。出土文物としては、陶片、銅製品、玉製品、亀茲小銅銭など。
モラナエシディン・マザー
市の中心から西へ700メートルほどにある墓。マザーは墓。モナラは「聖人の後裔」の意。エシディンが名前。エシディンは、クチャにイスラム教の布教に初めてきた伝道師と言われる。十四世紀の半ばのことである。祖先はプラハの出身という。
エシディンはクチャとその周辺で伝道をし、この地に没した。
墓は、大門、礼拝堂、墓門、墓室などからなり、いずれも緑色の琉璃磚で装飾が施された典型的なイスラム建築になっている。現在の姿になったのは、十九世紀後半である。
クチャ大寺
クチャの中心から西へ4キロ。クチャ河をこえて行く。
三千人を収容できる礼拝堂を持つこの地域最大のイスラム寺院。十六世紀の創設と伝える。
宣礼塔楼、大殿、無名墓、学経房、宗教法廷などの建築からなる。特に宗教法廷が残されているのは珍しい。
クチャ博物館
クチャ大寺の西北600メートル。「出土文物館」「織物館」「亀茲壁画館」「古銭幣館」からなる。スバシ故城で発掘された女性の骸骨、亀茲の銅銭、クムトラ千仏洞の壁画の模写などが展示されている。特に、クムトラ千仏洞の壁画の模写は非常に精密であり、また、見学には新彊ウイグル自治区文化部に申請をして許可を得なければならないこともあり、模写とはいえ、じっくり見る価値がある。
スバシ故城
クチャの市街から東へ23キロ。チョルタク山の南麓にある。広漠とした沙漠にクチャ河が流れ、その流れに分けられるかのように、東西ふたつの寺が向かい合って建てられていた。
玄奘三蔵が『大唐西域記』に記したチョグリ大寺だと考えられている。もしそうだとすれば、唐代には亀茲国最大の寺院であったところになる。
周りの壁はすでに倒壊してないが、三つの塔、楼、僧坊、仏洞などの遺構が残り、当時の壮大な規模を彷彿とさせる。
東区は、東西146メートル、南北535メートル。仏堂、北塔、僧坊などがある。西区は、東西170メートル、南北685メートル。南塔、仏堂、仏洞などがあり、仏洞の内部には人物壁画と亀茲文字による題記が記されている。また、このほか、漢~唐代の貨幣や泥塑仏像、木簡や紙片が出土している。
現在見学が出来るのは、西区だけである。
キジル千仏洞(キジルせんぶつどう)
クチャの西75キロ、ムザルト河の北岸に穿たれた石窟寺院。236の石窟が確認されている。クチャ地区で最も大規模な石窟群である。開削の年代は三世紀から宋の時代。
窟中の塑像はほとんど破壊されたか持ち去られてしまっている。また、壁画が残っている窟は74。
壁画の主なテーマは、因縁物語、仏教説話、本生説話などの仏教故事。そのほか、当時の生活や風習を題材にしたものの少なくない。第38窟の伎楽図には、琵琶をひいたり横笛を吹く姿が描かれている。
別名「青い石窟」とよばれることもあるが、それは、壁画の多くに青色が使われていて、それがひときわ鮮やかな印象を見る者に与えることによる。
この青色の顔料は、ラピスラズリである。ラピスラズリ。日本では瑠璃と呼ばれる。古代エジプトでもメソポタミアでも珍重された稀少な石である。これをふんだんに使った壁画がキジル千仏洞の一つの特徴であるのだが、このラピスラズリはクチャ付近では産しない。これを産するのは世界で一か所、アフガニスタンである。クチャから隔たること3000キロ。この一事をもってしても、クチャの繁栄、東西交易の盛んさ、そして千仏洞に注ぎ込まれた当時のクチャの人々の情熱の大きさが知れよう。
岩山の麓には近年鳩摩羅什の像が建てられている。キジル千仏洞と鳩摩羅什との間には直接的な関係はないが、鳩摩羅什がクチャの出身であること、そして彼が活躍をした時期と、千仏洞が盛んに開削された時期が重なることの縁による。
クムトラ千仏洞(クムトラせんぶつどう)
クチャの西南30キロ。ムザルト川の渓谷の東の断崖に掘られた石窟群。蜂の巣のように窟が穿たれているが、その数、112。南北に分かれ、南に32窟、北に80窟。三世紀から十一世紀にかけての開鑿、最も多いのはウイグル高昌国(531~640年)の時である。
窟内はすべて破壊されているが、保存の良い状態の壁画が三十余残されている。
クズルガハ千仏洞(クズルガハせんぶつどう)
クチャの西10キロ。5~6世紀に開鑿され、キジル千仏洞よりはややおそい。現在残されているのは46窟。仏陀の本生説話と因縁説話、捨身飼虎図などの他、飛天や武官を描いたものなどがある。
<クズルガハ烽火台>(クズルガハほうかだい)
クズルガハ烽火台(クズルガハほうかだい)
クチャの西10キロ。漢の時代の烽火台。漢は班超を使わし西域諸国を平定するが、その時、クチャには西域都護府が置かれる。匈奴との戦い、諸オアシス都市との抗争の最前線での情報伝達のために多くの烽火台が築かれたが、そのなかでも最も古い部類にはいると考えられれている。
高さ16メートル。上が展望のための台になっており、それを囲んでいた木の柵を今でも確認できる。
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