<ホータン(和田)について...>
漢の時代の于テン。西域南道の古くからの大オアシスである。玉の産地として有名。崑崙山脈より二条の河が流れてくる。市の西側にカラ=カシュ川、東側にユルン=カシュ川(黒玉川、白玉川と言われる)。ともにタクラマカン砂漠に流れ込むが、これら二つの川の河床から玉がとれる。
玉に対して中国人は古来特殊な神秘性を感じてきた。天と地が創り出す最も高貴なもの。高貴、完璧、節操、不朽の象徴、というように。「君子は玉において徳を比ぶ」などという。
河北省保定で武帝の庶兄、中山王劉勝夫妻の墓が発見された。二人は、金糸で綴られた2500枚の玉の札で作った葬衣に包まれて埋葬されていた。金縷玉衣あるいは金糸玉衣という。肉体の不滅という願いを玉に託している。そればかりではない。口に玉を含ませる。含蝉という。手に豚をかたどった小さな玉を握らせる。玉豚という。その玉は、ホータンにしか産しなかった。
玉は硬度や比重の違いから硬玉と軟玉の区別がある。硬玉は中国でも産出された。翡翠などが硬玉になる。しかしながら、中国人が尊んだ軟玉は、ホータンでのみ採れたのである。従って、上に述べた中山王劉勝夫妻が纏っていた玉衣の玉も、ホータンから渡ったものであったに違いないのである。
ホータンの玉が大量に中国に入ってくるのは、漢の武帝の西域平定後である。ホータン国は進んで土地の産物を朝貢するようになったという。ただし、中国産の硬玉と違って 皇帝の独占物そして、厳重に監視された。漢の西の果ての関所を玉門関という。玉の密輸を厳しく取り締まることも役割のひとつであった。
ホータンには、法顕や玄奘が訪れている。大乗仏教が盛んで大きな寺、多くの僧がいると記されている。マルコポーロは、「住民はすべてイスラム教である」と記している。
仏教王国として栄えたホータン国は十一世紀、カラ=ハーン朝に滅ぼされ一挙にイスラム化に向かう。また、カラ=ハーン朝の将軍ユースフ・カドゥル・ハーンは国都ホータンを破壊し尽くし、11キロ離れたところに新都を建設した。それが現在のホータンである。
<ホータンの見所>
ホータン文物管理所
ホータン地区で発掘された文物が保管・展示されている。発掘された遺跡の数は120箇所というが、玉器、楽器、絨毯、古幣からカロシュティー文字の書かれた木簡、ミイラに至るまで実に多種多様な資料が集められている。
カロシュティー文字とは何かというと、二十世紀初めスタインによってホータンの東北にあるニヤ遺跡、楼蘭などで大量の文書が発見された。木簡、皮、紙、絹などにカロシュティー文字で書かれていたためカロシュティー文書と言われる。王の命令、契約書、個人の書簡などを含むが、三世紀から四世紀の楼蘭やホータンの様子を知る上で貴重な資料となっている。カロシュティー文字は、紀元前三世紀ごろから西北インド、クシャン朝の領土内で使われていたものであり、文書を文字のみならず言語から見ても、サンスクリットの方言のひとつであるブラクリットで書かれている。このことから、三世紀に楼蘭を支配していた民族は、クシャン朝の遺民ではないかとの推測がなされている。
ヨートカン遺跡
ホータン市の西方10キロ。文物を含む土層は厚さ3-6メートルのの洪積層に覆われている。ヘディン、スタイン、大谷探検隊など多くの調査が行われた。
スタインのように、ここを漢代のウテン国の国都と考えるものもいるが、まだ、定説になるまでには至っていない。
マリクワト故城
ホータン市の南25キロ。ユルン=カシュ川(白玉川)の西岸にある。南北1.5キロ、東西800メートル。かなり大きな遺跡である。高大な土堆と建造物の礎石が残る。陶製の甕から漢の五銖銅銭が大量に発見されたほか唐代までの貨幣が出土している。漢代から唐代まで続いた故城であると考えられる。
また、房舎の遺構より、螺髪のある泥塑仏像の頭部が出土されており、『法顕伝』の「瞿摩帝大寺」、さらには、玄奘の『大唐西域記』の「大伽藍」ではないかと考える学者もいる。
白玉川(はくぎょくがわ)
崑崙山脈から流れ出た水は、ホータンの西側をカラ=カシュ川(黒玉川)として、東側をユルン=カシュ川(白玉川)として流れ、ホータンを潤していた。両河は沙漠の中で合流し、ホータン川としてタクラマカン砂漠を縦断して天山南路のアクス附近でタリム川に注ぎ込む。
また、両河はそれぞれ色の違う玉を、雪解け水とともに崑崙山脈から運びだす川でもあった。今は、カラ=カシュのほうは水が流れておらず、ユルン=カシュでのみ玉の採集が行われている。
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