<楼蘭(ろうらん)について...>
「往古、西域に楼蘭と呼ぶ小さい国があった」。井上靖の『楼蘭』の書き出しである。
楼蘭が中国の史書に初めて登場するのは、『史記』「匈奴伝」。匈奴の王・冒頓単于が漢の皇帝・孝文帝(在位:紀元前180~157年)に宛てた手紙の中で、自らの威を誇るために列挙した彼ら支配する西域の国々の一つとして書かれている。
「天がお立てになった匈奴の大単于は、敬しみて皇帝に挨拶を送る。お変わりないか。(略)天の降したもうた福運によって、軍官卒はすぐれ、戦馬は力強く、月氏を滅亡させ、全員を斬り殺したり降伏させたりした。楼蘭・烏孫・呼ケツおよびその近辺の二十六か国を平定し、すべて匈奴の領土とした」(岩波文庫/小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳)、と。
玉門関を西に向かう隊商が最初に出会うのオアシス、ここよりタリム盆地の北縁を天山山脈の南麓に沿って進む天山南路(西域北路)と、タリム盆地の南縁を崑崙山脈の北麓に沿って進む西域南路の二路に分岐する接点に当たる重要さより、常に匈奴と漢の双方からの圧迫に苦しみ続けた。
紀元前七十七年、前漢により名をゼンゼンと改めさせられ、また、三世紀ごろの支配階級はもとの楼蘭人ではなく、西北インドのクシャン朝の遺民に変わっていたと考えられているが、その中でも栄衰を繰り返しながら、最盛期の三世紀初めには東はロプ・ノール西北岸の首都クロライナから西はニヤ遺跡までを版図とする広大な国になっていた。四世紀から五世紀は前涼・前秦・西涼・北涼・北魏などに入貢をするが、445年に北魏により征服される。
ゼンゼンとしてはこれで滅ぶが、オアシスとしてはその後もしばらくは余命を保つが、七世紀以降は、どの史書からも姿を消す。
その楼蘭が再び人びとに姿を現すのは、1900年、ヘディンの発見によってである。
<楼蘭の見所>
楼蘭故城遺跡
ロウラン王国の都であったクロライナの都城跡。1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって発見された。七世紀以降あらゆる歴史から姿を消してから、1300年ぶりに忽然と姿を現した。
城壁、仏塔、住居、水路などの遺構が残る。
城壁はほぼ正方形で一辺は約330メートル。仏塔は城内の東の部分にあり現在の高さで10.4メートル。日乾し煉瓦と木材とタマリスクの枝で築かれている。 住居はすべて崩壊しているが、残る壁のあとから泥をタマリスクの枝で挟うようにして造られていることが知れる。
故城の周囲には仏教寺院や烽火台のあと、さらには古墳群がある。スタインは1914年に多くの墓を発掘し、漢の時代と思われる墓から毛織物や銅鏡、漆器などを出土している。また、ヘディンは1927年の調査で、若い女性のミイラを発掘。井上靖の『楼蘭』は、これに材を得た。1980年、中国の調査隊は、3800年前と測定された女性のミイラを発掘。
楼蘭故城遺跡
チャルクリクの北。タリム河の支流が注ぎ込んでいた塩水湖。『史記』では「塩湖」と呼ばれ、西域への探索から戻った張騫が武帝にこう報告する。ホータンから西では川はすべて西に向かって流れアラル海に注ぎ、ホータンから東では東に向かって流れロプ=ノールに注ぐ、と。『漢書』は「蒲昌海」と呼び、「広さは300里、湖水は澄み、冬夏を通じて水位が安定し、無数の水鳥が湖面に生息する」と言う。
ロプ=ノールが世界の人びとの関心を集めたのは、二十世紀初頭、ヘディンが、この湖を「さまよえる湖」と呼んでからである。彼は、こう考えた。タリム河の河道変遷のため湖は南北へ大きく移動する、と。そして、ロプ=ノールの湖畔に栄えた楼蘭の滅亡をその湖の移動と関連づけ、移動の周期を千六百年とした。
現在では支持されることはないが、砂に埋もれた「楼蘭」の発見と「さまよえる湖」説、十九世紀から二十世紀にかけての西域探検の時代を象徴するロマンであった。
いまは完全に枯渇し、干上がった河床をさらすだけである。
土垠遺跡(どこんいせき)
楼蘭故城の東北50キロ。1930年代黄文弼によって発見された遺跡。楼蘭を守るための狼煙台を含む軍事基地。台を土で築き、頂部に烽火用の薪が蓄えられ、将兵の住居も備えられている。漢の時代の木簡が出土している。
孔雀河のロプ=ノールへの流入口にあたり、船着き場もあったものと考えられる。
*新疆ウイグル自治区の観光地*
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