<張掖(ちょうえき)について...>
河西回廊の中部にある。武威どうよう以前は匈奴の根拠地であったが、武帝が霍去病を遠征させ、郡を置いたところから中国の版図としての張掖の歴史が始まる。
祁連山を南に望み、祁連山に源を発する黒河に潤され、シルクロードの豊かなオアシスとして栄えてきた。古来、「金の張掖、銀の武威」という。
また、河西回廊のみならず、東へは内蒙古、南へは青海に通じ、交通の要衝でもあった。四世紀、法顕が仏法を求め西に向かうも、また、十三世紀マルコポーロが大都を目指し東へ向かうにも、張掖を経由してのことである。
<張掖の見所>
大仏寺
旧称を迦葉如来寺、別称を宏仁寺、俗称を臥仏寺という。西夏の永安元年(1098)の創建で、明・清代に改修を重ね、現存の大仏殿・蔵経閣・土塔は清の乾隆年間(1736~95)の再建。
山門を潜ると、牌楼、大仏殿、蔵経閣、土塔が一直線上に並んでいる。中心は大仏殿で幅48メートル、奥行き25メートル、高さ20メートルの堂々とした建物で、なかに大きな涅槃像が安置されている。身長34.5メートル、肩幅7.5メートル、木の心の泥塑像で、朱色に金彩を施した法衣を身にまとい静かに横たわる。背後には十代弟子の塑造が並び、左右には喜怒の表情をそれぞれ異にする十八羅漢が控える。また、周囲の壁面には仏伝や「西遊記」に題材を採った壁画が描かれている。
「西夏の創建」と言うことの意味は、中国の王朝は北宋であったが、この地を支配していたのがベット系のタングート(党項)族が建てた西夏国(1038- 1227)であったということで、西夏以外にも、唐の時代の吐蕃(チベット)や五代の回鶻(ウイグル)など、この地を支配した異民族は多い。
マルコポーロは、張掖に一年近く滞在したが、この寺について感嘆の言葉を残している。
万寿寺木塔(まんじゅじもくとう)
中国では珍しい木塔。張掖市の第一中学の校内にある。
『甘鎮志』と『重修万寿寺石碑」によると、万寿寺は隋の開皇2年(582)の創建で、唐、明、清にそれぞれ改修されている。清代末期に強風のために木塔が倒壊したが1926年に再建。
高さ1メートル、一辺15メートルの基壇の上に建つ。八角9層の楼閣式、高さは32.8メートル。一層から七層までは、塔身は煉瓦、外周は木造、八層九層はすべて木造である。木造の箇所は釘やかすがいを使わずに木組みだけで造られている。
もともとは万寿寺の塔であったが、万寿寺そのものはすでに失われている。
鼓楼(ころう)
市の中心にある。張掖のシンボル的な存在でもある。旧称を靖遠楼という。
「重修甘州吊橋及靖遠楼記」碑によると、明の正徳2年(1507)の創建で、現存のものは清代康煕年間に修築されたもの。基壇はは32メートル四方の方形で、高さ9メートル。各面の中央に通路が通じ、東西、南北の大通りが貫通・交差している。その上に建つ、総高25メートルの二層の楼閣。
なかに、高さ1.3m、口径1.1mの銅鐘を吊すが、唐代のものと言われる。
黒水国漢墓群(こくすいこくかんぽぐん)
漢代の古墓群。黒水鍋漢墓群ともいい(国と鍋は同じ発音)、張掖市の市街西北15㎞にある。黒水河のほとり。東西2キロ、南北2.5キロの規模に墓が密集している。墓室は煉瓦造りで、塚は風蝕によってみな50センチ以下に削られている。地表に漢代の灰色陶片や縄文陶片が露出している。発掘調査をし、大量の陶壺や五銖銭が出土している この古墓群なかに故城がある。黒水国城堡遺趾という。シルクロードの駅站であったとされる。ふたつの城塁が南北に2キロ隔てて相対し、その間を蘭新自動車道路が通っている。それぞれ、東西約250メートル南北約220メートルの方形で、城壁は黄土をつき固めて築かれている。
城内は全くの廃嘘であり、建築物や通りの配置も風化と流砂の堆積で見分けが付かない。地表に瓦や磁器の断片が露わになっている。
「黒水国」という名は史書にはみえず、誰が住んだのか、何時のものなのか、詳細は分かっていない。
焉支山(えんしざん)
山丹県の県城.東南50㎞にある。臙脂山ともいう。臙脂とはほお紅のこと。
漢の武帝の時代、この辺りは、霍去病と匈奴との死闘の舞台であった。『史記』に言う。「漢は霍去病に一万の騎兵を統率させ、隴西から進発し焉支山を過ぎて一千里あまりの地点で匈奴を攻撃させた。首級と捕虜の騎兵あわせてを一万八千余を得た」。
匈奴はこの敗戦で、祁連山と焉支山を失い、遠く北へ追われたが、この戦いについて匈奴側は痛切な悲しみの歌を残している。
「我レ祁連山ヲ亡クシ、我ガ六畜ヲ蕃息セザラシム、我レ焉支山ヲ無クシ、我レ婦女ノ顔色無カラシム。」
祁連山は水豊かにして緑濃い理想の放牧地であった。さらに焉支山はほお紅を作るベニバナの生えている場でもあった。
匈奴は文字を持たない。この歌は、口から口へと歌い継がれていたのだという。
今は、人民解放軍の軍馬を訓練するための、山丹牧場が開かれている。
馬蹄寺石窟(ばていじせっくつ)
張掖から南へ65キロ。馬蹄山の山腹に点在する石窟群。
1500年以上前の東晋から彫られてきた。北寺、南寺、金塔寺、上・中・下の観音寺、千仏洞の七つの窟からなり、それぞれ1つから1O余りの龕を有している。絶壁に無数の窟がうがたれ、遠くから見ると、蜂の巣のようである。また、窟のなかに入ると、岩をうがって通路がつけられ蟻の巣のようでもある。
現存する窟龕・壁画・造像は唐代以後のものが多く、そのうち保存状態のいいのは北寺と金塔寺である。
──馬蹄寺北寺石窟(ばていじほくじせっくつ)
大小あわせて22の洞窟からなり、そのうちの代表的なものは三十三天洞。19の窟龕が上下5層に分かれて並ぶ。第1-3層は5窟、第4層は3窟、第5層は1窟で宝塔の形を表している。