<嘉峪関(かよくかん)について...>
万里の長城の西端。東の端は河北省の山海関。その間6000キロに及ぶ。
北の合黎山、南の祁連山に挟まれた峡谷になっており、西からの攻撃を防ぐには最適の場所である。関が設けられたのは明代の14世紀、モンゴル族の侵攻を防ぐ目的で馮勝将軍によって建てられ、嘉峪山の麓にあるで嘉峪関と名付けられた。
山海関が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、嘉峪関は「天下雄関」と呼ばれる。
高台に築かれた関城から南北に城壁が延び、南北の祁連山、合黎山も連なる。関城は台形をなし、周囲733メートル、面積3万3500平方メートル。周囲は高さ11メートルの城壁で囲まれている。
関城は内城、甕城、羅城、外城からなる。内城は関城の中枢で西の城壁は166メートル、東の城壁は154メートル、南北は160メートル。台形の形をしている。東西に門があり、東門を「光華門」、西門を「柔遠門」という。それぞれの門に楼城が建つ。
その東西の門を守るための城が甕城である。内城と甕城を北と南から挟む城壁が羅城。南と北の羅城から東へ延び、やがて交わりなかに広場を形作るの城壁が外城である。城の中に城があり、城の外に城があり、内城、甕城、羅城が相互に防御しあうように造られている。
西門の甕城の門楼にひとつの煉瓦が置かれている。言い伝えがあり、嘉峪関を造るときに工匠が極めて正確に必要な煉瓦の数を計算し、工事が終わったときに残った煉瓦はひとつだけであった。その煉瓦がこれである、と。
関城の正門は、西向きに建っており、楼上に「嘉峪関」と書かれている。
<嘉峪関の見所>
魏晋壁画墓(ぎしんへきがぽ)
嘉峪関の東北20キロ、新城郷のゴピ灘にある。周囲10キロ以内に魏晋時代(220~419)の墓が千以上ある。
1972年に8墓を発掘。そのうち6墓が壁画墓で、合計600の壁画が見つかった。多くはひとつの煉瓦にひとつの絵が描かれたものであるが、なかには大型の壁画もある。煉瓦の大きさは、通常約34センチX約17センチが一般的。
墓の構造は二室墓か三室墓で、墓門、前室、左右耳室、(中室)、後室というような構成になっている。
絵の題材としては、墓の主人の生前の生活に材を採ったものや、農業、牧畜、養蚕、戦争、狩猟、、林園、伎楽、牛馬など。
一号墓の墓主と思われる画像の傍らに「段清」とある。『晋書』段灼伝に段氏の記述があり、「代々土着の姓」とあり豪族と考えられる。壁画は墓主の豪華な生活を写したものが大半を占めるが、一方では、庶民の生活を描いたものも200幅余りを含み、農業、養蚕、牧蓄などの生産活動を題材にしたものも多くある。色彩は赤褐色と赤色が中心で、色の使い方は単純であるが、それだけに強烈な印象を残す。敦煌・莫高窟の初期の壁画を連想させるものも少なくない。
黒山石刻画像(こくざんせっこくがぞう)
嘉峪関市の西北20キロの峡谷にある。黒山の四道鼓形溝と石関峡の絶壁に、合わせて153の石刻が1キロにわたって彫られている。黒紫色の岩壁に浅いレリーフで描かれ、技法は稚拙であるが、独特の魅力を持った描かれ方をしている。
絵の内容は馬、牛、羊、ラクダ、虎、イヌなどの動物、また、人が騎射、狩猟、舞踊などを行う様子も描かれている。全体的にみて、遊牧・狩猟生活が描かれているのに対して、農耕の様子が描かれていない。古いものは、新石器時代の遊牧民族によるものと考えられる。
殷の時代のチベット系の民族説、大月氏説、匈奴説などあるがまだ定説はない。