兵馬俑は秦始皇陵墓の中にある一組の殉葬坑(殉死者をいっしょに葬る)で、陵墓と切られない関係がある。中国古代には人が死んでも魂が死ななくて、冥土の世界でも生前と同じように生活しているという伝統的な觀念があった。だから死者に対する葬儀と埋葬の原則は生きている人に対するのと同じで、生きている時持ったのは死んだ後も持つべきである。秦始皇は生きていた時皇帝で、陵墓の全体の建築構造及び殉葬の物品は皇帝の礼儀制度によって扱ったのである。
1974年に兵器俑の発見からさらに秦始皇陵墓に対して系統的に調査と実地調査を行なって、秦始皇陵墓のわよその建築構造を推察した。秦始皇の陵墓は頂が平らである四方形の錐体で、本來の高さは115メートル、底の周りは2000メートルであった。二千年にわたった風雨の脫落破損と人為の破壊のために現在陵墓の高さは76メートルで、底の周長は1390メートルである。陵墓のあたりには三重の城壁が重なっていた。一番裹にある地下宮殿をとりまいた城壁は地下城で周りが1704メートルで、高さと厚さはそれぞれ4メートルで、煉瓦の生地で築きあげたのである。あとの二つの城壁は地上建築で大きな土で築きあげだのである。この二つの城壁は長方形で、內にある城壁の周が3870メートルで、外にある城壁の周りが6210メートルである。城壁の四面には門があって、門の上には望樓がある。これは始皇の陵墓の建築構造が都を模擬し作り上げたのたのを示している。
陵墓には兵馬俑坑のほかに銅車馬坑、馬廐坑、珍禽奇獸坑および樣々な府蔵坑もあって、全部で2000余りある。銅車馬坑の規模は大きくて、面積は3025平方メートルである。1980年11月に銅車馬坑に対して局部の発掘を行なって、二つの大型の色彩のついた銅車馬を出した。銅車馬の大きさは実物の半分ぐらいである。各車馬は3000余りの部分を組み合せてからなったもので、重さは1000キログラム余りである。車、馬は皆青銅質で、更に大量の金銀を裝飾に、全体に彩色の花紋があって、今までの考古史では発掘された車馬の中では等級が最高で、裝飾が一番華美でまた一番よく保存されたのに属する。
二つの銅車は皆両輪、単轅で、前には四匹の銅馬を御している。しかし両車の形は違っている。1号銅車の箱は橫長方形で、車內には長い銅製の傘蓋があって、傘蓋の下には一人の御者俑が立っている。2号銅車の箱はセダンと似ている形をして、四面が封鎖していて、頂には橢円形の篷蓋があって、その前と左右の両側には皆一つの窓があって、後には門があり、ドアと窓は自由に開閉できる。車の箱は前後二部分あって、前部には一人の跪き坐っている御者俑があって、後の部分は車の主人がいる所である。1号車は兵士用の車で、昔「立車」と呼ばれ、また「高車」とも呼ばれる。2号車は古くは「安車」と呼ばれ、車には窓とドアがあって、窓を開けたら涼しくなって、閉めたら溫かくなるので「輼」とも呼ばれる。
銅車馬の出土情况

1号銅車馬
2号銅車馬
古代皇帝が宮殿を出る時、必ず一定の儀仗隊をつれて、儀仗には三つの規格がある。最高規格の儀仗隊には車が81台あって、中流規格の儀仗隊には車が36台あって、最低規格の儀仗隊には車が9台ある。上述の二つの銅車馬は中流規格の儀仗隊に属するものである。1号車は車隊の中で道を開き、車隊の安全を保護する役割をしている。2号車は副車で、いわば予備車である。BC218年秦始皇が東へ巡幸した時、一人の力のある刺客が鉄鎚をもって秦始皇を刺し殺そうとしたが、間違って副車を襲撃したので、秦始皇帝はこの災難を免れた。しかし皇帝は副車に秉ったこともあって、例えば、BC210年秦始皇帝が東へ巡幸した途中、沙丘(今河北省広宗県內にある)でなくなった時輼車(いわば安車)で咸陽まで送ってきた。1、2号銅車馬は秦始皇帝のほんとうの車馬の模型で、彼の魂が冥土の世界でも巡幸できるように一緒に殉葬したものである。
また秦始皇帝の陵墓にも大型の馬廐坑1、小型の馬廐坑を98発見した。これらの坑內に埋葬のは真実の馬で、生きたまま埋葬したのもあるし、殺したら埋葬したのもある。全部で500匹近くある。馬の頭の前には陶制の鉢や缶がある。鉢の中には穀と草があってかいばおけを象徴している。缶は馬に水を飲ませるために使われたものである。大型の馬廐坑から背丈1.9メイトルの大陶俑、小型の馬廐坑から実物大の跪き坐り俑が出土された。これらの陶俑は馬を飼う人員である。馬廄坑から出土した陶器には「大廐」「小廐」「宮廐」 「中廐」「左廐」など馬を飼う廐苑の名称がついている。車を引くためにも騎兵のためには馬がたくさん需要なので、秦始皇帝の生存中、都內外には馬を飼う場をたくさん作った。彼がなくなったら魂のためにもたくさんの馬を地下に埋葬した。秦始皇帝が方々ををしてまわるのが好きなので、陵墓の內には珍奇獸坑をたくさん作った。今までに一つ発掘された。
秦始皇帝の陵墓には発掘した陪葬坑がほかにもたくさんあるが、いちいち紹介しない。一口で言えば、秦始皇帝が生前の全てを地下で模擬し、地下王国が地上王国の再現である。秦始皇帝が生存中、都咸陽に住んでいて、警備のためにたくさんの軍隊を用いたが、死後にも彼が統治した山河を保護し、皇帝の最高の尊嚴を維持するために8000兵馬俑を陪葬に使った。
秦始皇帝陵墓は一つの文物宝庫で、考古の仕事が深く進めば進むほど、新しい遺跡や遺物がどんどんと出てくるなずである。 「ここは旅行者の景勝地で、考古学者の天国である」と一人の考古学者はユイモアに言った。これは必ずしも過言ではない。
1998年11月8日 秦始皇墓兵馬俑博物館にて