墓を作った人の墓は秦陵西南約1.5km の所にある。今2か所を發現した。一つは趙背戸村の西南約50mの臺地にある。他の─つは姚池頭村の北にある。 2葬區は500mぐらい離れた。姚池頭村北の墓は土地平整によって、破壞された。今殘存の長さ0.5m幅1 2m,表深さ0.6~ 0.8mの一角にすぎない。內は人頭骨、骨、四肢骨等堆滿にして、骨骼はばらばらして、完壁の人體骨賂は一つもなかった。趙背戸村西の墓地は南北長さ180m、東西幅45m、面積約8100m2、初歩に探出した墓葬は114座で,42座を清理した。墓葬は大體三行にして排列して、東の一行は南北向け,外の両行は東西向けに排列する。墓葬は十分密集して,墓の間距はわずか0.2mで,また一つの大坑に若干の小墓穴を隔だてた。小坑の隔牆は0.1mだけで,墓坑は大變簡陋である。あっる坑內にかさね押した三四具屍體があった。ある屍體は最後のあがきをしている。それは皆殺されて埋められた。こんなせますぎた墓坑は秦代の墓葬にめずらしい。それは陵園の東側に斜め坡の墓道の甲字型墓の規格と明かに比べてちがうのである。
こちらの墓葬は棺もなかったし、陪葬品もなかった。ただ1座の墓葬は粗繩紋板と瓦で長方形の盒式瓦棺を作ったのである。32座の墓坑內に100餘の屍骨を置いて,つの墓穴に1具屍骨を埋めたのもあるし,2─3具もあった。一番多いのは14具もあった。兒童の骨2具もあった。其の中に一男一女と一人の兒童は同じ─つの墓坑もあった。兒童の屍骨の特徵によって判斷すれば,その年齡は多くとも10歳にならない。雲夢の秦簡の條文から見れば,この三人の一穴に埋めた死者は徭役を服した一家だっだである。死者の葬式は基本に屈肢葬であった。仰身直肢の葬者はわずか4具しかなかった。屍骨の放置の頭向きも一致しなかった。あるものは平において,あるものはかさねおしあったので。あるものは仰身で,あるものは側身で,あるものは俯身で,その埋葬は非常に荒埋めたのを説明した。この100具の屍骨には94具は大體完壁であった。外の 6具は下肢の殘斷もあって,腰の殘斷もあった。頭骨に刀傷の跡もあった。あるものは身胴體と首は異所にあった。四肢骨と幹骨はかさねおしあったのである。これらの人人はあきらかに墓を作って慘殺されたのである。
墓葬の中18塊の繩紋板瓦に刻んだ文を發現した。それは死者の身の源を解決に直接の文字資料を提供したのである。これは我が国の當面發現した一番早かった墓誌である。これはの60瓦文は死者の氏名、籍貫、刑名と爵名さえもある。墓を作った人の墓は秦始皇が全国各地から10萬の刑徒を征調して、陵墓を作った事實を證實したのである。秦代の嚴酷な刑法と繁重な勞役を反映したのである。