都江堰から成都へ戻る途中の卑県の西南部に望叢祠があります。都江堰見学の補足にもなり、成都市の歴史の勉強にもなると思いますので是非立ち寄って下さい。
中国の奴隷社会時代の中国歴史の主流と言われておりますのが、黄河流域にある中原の商周文化ですが、成都平野では特徴の違う古蜀国文化があり中原文化と比較しても甲乙つけられません。四川省成都市の近く広漢県の三星堆から出土した青銅器を見ても分かるように、古蜀国文化の代表として望叢祠もその中に数えられております。
それでは「望叢」とは何でしょうか。「望」は望帝、「叢」は叢(そう)帝、二人の帝王のことです。四川省の歴史上最も早く登場した帝王で、政治家でもあります。蜀国の建国時期は紀元前770-前400年の間と言われております。この時期を中原の歴史に照らして見ると春秋時代から戦国時代への途中に当たり孔子もその時代の人です。
望帝の名前は杜宇(トウ-ホトトギスの別名)といい蜀を打ち立てた時代、成都平野が採集、狩猟から農耕作業、牧畜経済へと移行する重要な時期でした。杜宇は農業に力を入れ、四川農業発展を促進してきました。成都平野が食糧基地となり、農作物が豊かなのは望帝のお陰と言えるでしょう。そのため、杜宇は杜主、或は土主と言われ、「農業の神」として崇められてきました。そのため昔から「農耕前にまず杜主を祀る」という習慣が出来たのです。
叢帝は名前が開明で、元々望帝の丞相でした。当時成都平野を流れている岷江は水害が多く、大きな損害をもたらして来ました。開明が今の都江堰付近の玉壘山を掘り、岷江の水を沱江に導入し、また沱江においても排出水路の工事を行い、成都平野の水害対策を行いました。その後、李氷が指揮した都江堰水利事業の一部分は、開明の治水経験をまとめて造ったと言えるのでしょう。
開明は治水工事の功績により、望帝の後継者として蜀の帝王となりました。歴史では三国時代の劉備玄徳の蜀と区別するため、杜宇の蜀は「古蜀国」、劉備玄徳の蜀は「蜀国」と言われております。
最初は望帝墓と叢帝墓は別々でしたが、11世紀に一緒に祀り「望叢祠」となったのです。中国では、二人の帝王を祀る祠は少なく「望叢祠」のような祠は本当に珍しいものです。
正門に入ると一枚の高い壁が立っており、祠の中の景色を遮っています。これは中国古代建築芸術の一種で、一目で全部中のものが見えないようにするのが目的です。壁にある「望叢祠」の赤い三文字がすぐ目に入ります。壁の東西両側には門が一つずつあり、均整がとれています。何方からでも入ることが出来ます。中に入ると木や竹が生い茂っており、山と水が趣を成しており、静かで美しい景色の祠は現在公園にもなっており、人々はボ-トを乗って美しい風景を眺めたり、茶店でのんびりお茶を飲んだり、家族友人とカラオケ・マージャンを楽しんでおりますが、まず帝王のお墓をお参りしてください。
低い丘に位置している望帝、叢帝のお墓はそれぞれが小さい山で石碑が立っており、生涯の事跡が記載されております。望帝墓は高さが15mで、面積は1haあります。丘にはコノテガシワが100本あり、古い楠や木犀には説明板が掛けてあり、その歴史と貴重さを物語っております。これらの高い樹木と竹林などによって丘一面に緑の雲に覆われているかのようです。叢帝墓は高さが12m、丘全体は望帝墓と同じように緑に満ちております。
二つの墓が向かい会い地下で両帝王がなにか話をしているような感じがいたします。2500年前の祖先の業績を思い出し、敬慕する気持ちが自然と湧いてきます。
望帝についての伝説が地元の人に伝わっております。望帝杜宇が亡くなると、杜宇は郭公(カッコウ)に変わり地元の人々が農作業を忘れないように、春になると昼夜鳴き農作業を催促するそうです。
望叢祠はそれほど有名ではありませんので、内外からの観光客も少ないですが、四川の歴史に重大な影響を及ぼした人物を紹介することは重要だと思います。