杜甫といえば詩聖として,李白と並び称される唐代の大詩人です。「安史の乱」を避けるため759年に家族を連れて南下し、成都に着き、三年半位暮らしました。流浪詩人の杜甫は友達の援助を受けて今の杜甫草堂で藁葺きの家を建て、貧しい日々を過ごしました。
唐の直後の五代十国時代に初めて建てた祠堂を土台に歴代、特に明、清代に大規模な改修を繰り返し、現在の規模となりました。
今の杜甫草堂の入り口は二つあります。普通利用されているのは本当の正門ではなく、南の門「南大門」です。本当の正門はいつも閉まっているのです。その理由は当時の寂しさを後世の人に実感していただくためです。
実際の杜甫草堂は「花径」という所からです。「花径」という言葉は杜甫の詩「花径不曽縁客掃」により、当時ここは花で一杯ではないかと推定されたことから、「花の道」の意味として名付けられたものです。しかし、今は花がもうなくなりました。「花径」の入り口にある郭沫若先生が書いた対聯(対の柱かけ)を見てみましょう。「花学紅綢舞、径開錦里春」。「花」と「径」をうまく中に入れたばかりか、花は風に揺れていて、人々が紅綢の踊りを踊っているかのように見えているのではでしょうか。「花径」を抜けてせせらぎに沿って歩き、左に曲がると「詩史堂」と「大廨」があり、右には「柴門」、「工部祠」と藁葺きの建物です。
「柴門」とは扉で、伝えによると、それは杜甫の家の門で、杜甫先生はここで友達や来客を迎えたり見送ったりし、またここから出て、せせらぎで魚釣りをしていたそうです。「花径不曽縁客掃、蓬門今始為君開」は杜甫が友達や友人との付き合いに関する詩句で、「お客様が来ても花径の掃除もしていなかったが、蓬門を友達の為に開けた」という生活の雰囲気が非常に表れております。
中の「蓬門」は即ち「柴門」で、粗末ながら先生の生活の趣となっているのでしょう。「柴門」を抜けて、前に行くと「工部祠」です。「工部」とは官職の名で、杜甫がこの職に就いたことがあることから、人々に杜工部とも言われております。
門前の両側に「錦水春風公占却、草堂人日我帰来」と清代の何紹基が書いた対聯が見えます。「公」とは杜甫先生のことですが、「人日」は旧正月からの七日目で、昔その日に杜甫草堂を訪れる習わしがあったそうです。「錦水春風」とは杜甫草堂の中を流れている渓流、浣花渓のことを指しております。「草堂の自然景観を杜甫先生が持っていたが(先生がもう亡くなって)人日に私が帰ってくる」と、その言外の意味として、特に「公」と「我」との対応により作者が杜甫先生の後継者と自負していることがわかるでしょう。
中には三つの龕(がん)があり、真中が杜甫先生です。微笑みながら何か話しているこの像は、私たちの記憶している杜甫先生よりふっくらした顔付きをしていますね。その両側にお伴しているのは宋代詩人陸游と黄庭堅で、二人は「忠君愛国」思想が杜甫先生とぴったり合い、詩風も同じ現実主義で、また、三人とも蜀に滞在したことがあるなどの共通点から一緒に祭られたのです。
「工部祠」の中にまた「詩聖杜拾遺像」という石碑が立っており、杜拾遺は杜甫先生のことで、それは唐代の皇宮の聖賢図鑑に基づいて彫刻したものですので、その像が実物に近いと言われています。頬骨が突き出ていて、体が痩せこけている杜甫先生が自分の困窮流浪にもかかわらず、国と人民のために憂えていることを浮き彫りにされたのでしょう。今は「国やぶれ、山河あり、城春にして、草木深し。時に感じては、花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは、鳥にも心を驚かす。」という「春望」の詩を吟じてみると、さらに理解できるでしょう。
「工部祠」を出て、左側に藁葺きの屋根があり、中に「少陵草堂」いう清代に立てられた石碑が見えます。「少陵」とは杜甫が以前に住んでいたところの地名です。杜甫先生がよく詩の中に「杜少陵」「少陵野老」と自称していたことから「杜甫草堂」は「少陵草堂」とも呼ばれております。その屋根となっている藁葺きは当時の杜甫先生の家の茅葺きと同じにするよう造られたもので、石碑と一緒に「杜甫草堂」のシンボルとなっております。観光客がここで記念写真を撮っているのをよく目にいたします。
「柴門」「工部祠」と一直線に並んでいるのは「詩史堂」と「大廨」です。「詩史」とは詩の歴史という意味で、杜甫が現実を反映する詩を多数創作したことから、現実詩人と言われ、その詩も歴史の詩となったのです。皆さんよくご存じの「春望」と「登楼」も現実詩で、これらの詩から唐代の繁栄から衰退への歴史が分かるという意味で「詩史堂」と名付けられたのです。中心部に杜甫の半身像があり、両側に木に彫刻した「草堂留後世、詩聖伝千古」と書された対聯がかかっております。草堂も杜甫先生も永久に朽ちることなく、後世に伝わるという意味です。
「大廨」は事務所という意味で、杜甫が生涯で二回出仕したことがありますが、貧しくて自分の事務所さえ持てなかったのです。人々は杜甫先生が事務所を持つべきだという善良な気持ちからこの「大廨」を建造しました。しかし、大廨(事務所内)には机も椅子もないことから、その貧しさが感じられるでしょう。中央にもう一つ杜甫の銅像が供えられており、杜甫が髭を撫で突けて風に向かって、遠方を眺めている姿です。鬱々(うつうつ)と志が遂げられないことはその顔から確実に感じられるでしょう。国に自分の才能を捧げたいのですが、奸佞(かんねい)が権力を持っているために、それが実現できないことはどんなにつらいことだったでしょうか。それに国も紛争に陥ってしまい、自分の家にさえ帰れなくなり、人民がさらに苦しくなり今後はどうなるのでしょう、と杜甫は国の将来と人民の境遇を心配していました。
しかし、歴代に重用にされていない人材は杜甫だけではなく、「大廨」の中に掛かっている清代学者顧複初の対聯「異代不同時、問如此江山龍蜷虎臥幾詩客」「先生亦流寓、有長留天地月白風清一草堂」も自分の不遇と失意をよく表わしたものです。「杜甫先生の時代と違う今日の国には私のような詩客がまた何人居るのだろうか」「先生もここに来て、少なくとも後世にこの草堂を遺した(しかし私は何も遺していないという言外の意味が含まれている)」と顧さんが杜甫に負けない才能を持っている自負心を抱きながら自分の境遇がもっと厳しいことと嘆息しました。非常に中味の豊富な対聯として名高くなりました。
文物古蹟は以上ですが、そのほかにまた売店や茶店があり、休日には人々が家族を連れて杜甫先生を訪れてから、お茶を飲んだりトランプをして楽しんでいます。