成都で日本の観光客を一番引き付ける所は何といっても「武侯祠」でしょう。
武侯祠の「武侯」というのは中国の後漢時代に登場した英雄、劉備玄徳の軍師、諸葛孔明死後の諡号(おくり名)「忠武侯」に因んでつけられたものです。
劉備玄徳が亡くなってから、諸葛孔明はその遺志に従って、子供の劉禅を補佐することにしました。実際の行動として、6回にわたって祈山を出て中原にある魏の国を討伐しましたが、234年、五丈原において志半ばで陣没いたしました。後世の人は諸葛孔明を祀るために、三国時代の直後の晋代に「武侯祠」を立てました。しかし場所はここより南にあったと言われています。
現在の「武侯祠」は元来劉備玄徳を祀る「漢昭烈廟」だけでしたが、約600前の明の時代に「武侯祠」と「漢昭烈廟」が一つになりました。「武侯祠」の正面の額に「漢昭烈廟」と文字が書されておりますが、「昭烈」というのは劉備の謚号で、劉備が白帝城で亡くなってから、その屍体が成都に運ばれ、葬られたのです。
要するに最初は「武侯祠」と「漢昭烈廟」は別々で,明代に「君臣合廟」になったわけです。劉備は皇帝で、諸葛孔明は臣ですので、「漢昭烈廟」というべきですが,人々はもっと諸葛孔明の才徳を慕い、普通は「武侯祠」と呼ぶようになりました。中国では諸葛孔明は普通の人ではなく、もう神様のように尊敬されていることから,「三人よれば諸葛孔明の知恵」という諺があります。
今の「武侯祠」は三つの部分から成り立っております。「劉備殿」「武侯祠本体」「劉備の墓」です。
「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」は「三絶碑」といわれる唐代に立てられた石碑で、三絶とは石碑の文章、石刻技術、書跡の三点が素晴らしいとの意味です。高さは367cm、幅95cm、厚さ25cmで内容は諸葛孔明の生涯の事績を記したものです。文章は当時の宰相裴度、彫刻は魯建、書跡は著名書道家柳公綽です。
劉備殿
劉備殿の門前の額に「明良千古」と記された一つの扁額(横に長い額)があります。「明」は劉備が賢明、「良」は諸葛孔明が忠誠という意味です。「千古」という言葉は中国の名所古蹟でよく見られるもので、後世まで伝わるという意味です。
建物の中に入ると正面で南に向って座しているのが劉備の像です。ここに「業紹高光」と書かれた扁額が掛かっています。「業」は業績、「紹」は越えている、「高」は前漢の開国皇帝の高祖劉邦のことで、「光」は後漢の最初の光武帝劉秀のことで、業紹高光の意味は劉備は劉邦、劉秀よりも業績が上である、つまり劉備に対する高い評価です。
劉備像の東西にはその兄弟の契りを結んだ関羽と張飛の殿で,「義薄雲天」「誠貫金石」という関羽の「義」と張飛の「誠」を称賛しております。両側には統、趙子龍を始めとする文臣と武将の廊で、いずれも14人づつ並んでおりますです。清代に作ったカラーの塑像で、その形が当時の地方劇の中の人物像に定着したものと言われています。武将の黄忠、馬超、姜維など及び文臣の蒋琰、費禕、馬良など皆一つの物語を語っているような顔をしており、思わず1700年前の三国時代のいろんな出来事が目の前に浮かんで来ます。
両側の塀には左右対称に「前出師表」と「後出師表」があります。「出師表」というのは諸葛孔明が劉備の死後、魏との戦いの出陣に当たり、若年の蜀の皇帝、劉禅に奉った上書です。その内容は、政治の心構えを説き、忠誠のあふれた名文で、前後二編があります。「臣亮が申し上げます。先帝が創業の半ばでお隠れになり、今の天下は三分の天下で、益州(蜀)には疲弊の色が見え、危急存亡之秋である」で始まる「前出師表」。書跡は南宋時代の漢民族英雄岳飛で、武将としても、また書道家としても名を知られています。
劉備の像は天秤形の冠をかぶり、金の着物を身に着け、珪を手にしており、当時の成都の主人としての立派さが窺えます。右側の壁には「三顧の礼」を表わす絵があります。諸葛孔明が三本の指を出し、話の相手の劉備に今後の天下の情勢について分析しています。絵の中の諸葛孔明は年寄りみたいに見えますが、実はその時は僅か27歳で、劉備より20歳年下です。左手に並んでいるのは劉備の孫、劉諶です。劉禅が蜀国を潰したことから、その像は立てられていません。
武侯祠本体
「武侯祠」という額の両側に対聯(対の柱かけ)がありますす。「三顧頻繁天下計、一番晤対古今情」。三顧の礼に酬いるために、諸葛孔明が劉備に計を出した隆中(地名:湖北省襄樊市襄陽の西)での話合いが美談として後世まで伝わるという意味です。
「静遠堂」は諸葛孔明のご殿です。「静遠」というのは諸葛孔明が言った「寧静致遠、淡泊明志」で、心が落ち着かないと遠大な志が実現できないとの意味で、子供を励ます言葉だと言われています。その右に供えている銅の太鼓が「諸葛鼓」で、直径60cm、高さ40cmです。諸葛孔明が南征の時、昼間はそれでご飯を炊き、夜はそれをたたいて警報を発したと言われています。
隣の壁に彫刻した唐代の大詩人杜甫の「蜀相」があり、3年6ヶ月位成都に暮らしたことのある杜甫は何回もここを訪ねて、この詩を残したそうです。「丞相の祠堂はどこか,錦官城のそっぽにある柏が茂っている所に。春のやよいに若草が萌え、聞け、鴬の声がうらら。三顧に酬い、天下の計、両朝のため、心を砕く宮仕え。出師の半ばに君が倒れ、後世の英雄にえりを濡れさせている」という、中国の中学生も皆暗誦している唐詩です。
諸葛孔明の息子と孫の像も「静遠堂」に並んでいます。正面の両側にある「能攻心則反側自消従古知兵非好戦、不審勢則寛厳皆誤後来制蜀要深思」という対聯が特に有名で、兵法では人心を攻めることがなによりで、城を攻めるのは次の策、治国は時機の判断となりゆきに対する予測を深思しなければならないという諸葛孔明の治国治兵の思想を反映したものと言われています。
劉備のお墓
赤い塀で囲まれた小道を二、三分間ほど歩くと劉備のお墓です。竹が生い茂っているこの小道は写真撮影に最適な場所です。
劉備のお墓は「惠陵」と言われ、「漢昭烈皇帝」という石碑の後にある小山のなかに劉備の亡骸が葬られています。つい最近お墓の改修工事が行われ、お守りとしての神様の像も新しく立てられましたが、「千秋凛然」という扁額から大志がむくわれずに亡くなったことは、漢の血筋が流れている劉備にとってどんなに悲愴なのか理解できるでしょう。
また、「三国志」のプロローグに書かれた「長江東に去り、浪英傑を呑む、なるもならぬも夢のように、青山が永久に青くし、夕日の紅が幾度」のとおり、去ってしまったこと、過去を変えることはできるのでしょうか。その点から見ると「三国志」が私たちに与えたのは歴史そのものだけではないでしょう。